これは、「サービスとしての価値としての意味」と「あなたにとっての意味」に分けて考えた方がいい。
■まず、「あなたにとっての意味」について。
僕は、「やれば意味が見えてくるし、やらなきゃいつまでたっても意味なんて見えてこない」と答えるようにしてる。(もちろん、もっとやさしい表現で)
そもそも、意味を問うこと自体がナンセンスで、「人間やる意味あるの?」ということに等しい。
人生に意味を見い出したい人にとってはあるんだろうし、人生に意味はない人にとっては意味がない。
そして、それは人間でなきゃ持ち得ない問いで、この問いを発するためには人間として生まれてこないといけないことになる。
小難しい話はこれぐらいにして、大切なのはユーザーはそこになにがしかの「意味」を見い出した、もしくは感じたからやっているのであって、その意味は人それぞれでいい、ということ。
やってみて合わないんだったらやめりゃいいし、誰も何も言わないよ。あなたがつぶやかなくても、Twitterにはつぶやきがアップされていくし。
■サービスの価値としての意味について
個人的には、Twitterというインフラに何気ないつぶやきをして、それがどこかで何かのヒントになったりという、ちょっと奇跡に近いもの、セレンディピティを起こす可能性があることに意味を感じている。「別に誰のためでもないんだけど、誰かのためになってたらいいな」的な。
オフラインのつぶやきは、ほんとにただのつぶやきでしかない。言えば虚空に消えていくもの。
Twitterのつぶやきも本質的にはただのつぶやきでしかなくて、他人のつぶやきをただただ追っていく、っていうと退屈なサービスに聞こえるかもしれないけど、つぶやきに意図がこめられていたり、ほんとに何気ないつぶやきがあったり、それらがごちゃごちゃになったカオスがすごいことを生んだら楽しくない?
これはどういうことかというと、意味は「他人が持たせている」ということ。
■つまり、
意味とか価値なんて、上のことで十分じゃないか。だって、「つぶやき」だよ?
大事なのは、他の誰でもない、「あなたがどう評価するか」だ。
あとは他のユーザーが意味を持たせてくれる。
それなのに、他の大勢の話(特に非ユーザーや価値を見い出せなかった人たちの)を持ち出していちゃもんつけるのはいただけない。現実に使っている人もいるのにもかかわらず。
「まずはやってみる」
何事もこの精神で臨みたいところだ。自戒をこめて。
そのほうが建設的でしょ。